縁切り屋・真珠(14)
飛散した水の粒子が、美代の頬を濡らした。遠のきそうになる意識を、薔薇の香りが連れ戻す。据わり心地のいいレザーシートに身を沈め、美代はゆっくりと重い瞼を開けた。
「ようこそ、夢見台パール美容室へ」
美代の右上に、真珠の笑顔があった。真珠は美代の髪を、薔薇を浮かべた水で湿らせると、丁寧にブラッシングした。癖を整えると、そっと肩に手を置く。
「あなたにピッタリの髪型にいたします。だから…」
透き通った声が、美代の体に染み入る。真珠の唇が、静かに結ばれた。呑みこまれた言葉。美代は上目に真珠を見つめた。
「…だから?」
「ボクを信じてください」
真珠の笑顔。じっと見つめていたくなる表情(かお)。黒く深い瞳。落ち着いた気持ちになる。美代は笑みを浮かべて頷いた。
「これから先に、どんなことが起こっても」
真珠の笑みに、美代はまばたきをして、もう一度頷いてみせた。その表情を確認し、真珠もゆっくりと頷く。真珠の視線は、鏡前に置かれたウイッグモデルに注がれた。
「では、始めましょう」
手にしたブラシを、腰にさげた革ケースに戻して両手を美代の肩に添える。美代の体を、電流が流れたような刺激が駆け抜けた。鏡のまえに向き直る。
「え!?」
美代は身をのけぞらせ、轢《ひ》きつった声をあげた。鏡の向こうに、あの影がいた。美代と同じくレザーシートに身を沈め、黒いフードに顔を覆い隠して。
美代は爪をたて、身を硬直させた。肩に置かれた真珠の手に強い力が加わる。席を立つことは許されなかった。怯えた表情を浮かべて真珠を、見上げる。真珠の顔からは、すでに笑みは消えていた。ゆっくりと首を左右に振る。美代は真珠よりもずっと早く、首を左右に振り返し応えた。真珠の右手が、ゆっくりと美代の眼前に迫る。小刻みに揺れる美代の瞳は、真珠の細長い指先を追った。美代の眼前で、真珠は開いた右手を閉じ、人さし指だけをたてた。右手を戻して人さし指を自身の唇に押しあてる。ゆっくりと唇が開いた。鏡の向こうで、影が動き出す。美代の体は震えていた。
真珠の唇を割って漏れたのは、甘い吐息ではなく、蒼白い炎だった。まるでろうそくのように、真珠の人さし指の先端に蒼白い炎が灯る。真珠はゆっくりと、指先を美代に向け近づけていった。大きく見開かれた美代の瞳は、真珠の指先を凝視している。何が起こるかを想像した美代は顔を背けた。素早く真珠の左手が、浮き出た美代の頬骨を押さえる。真珠の人さし指の先が、美代の唇に触れた。滲む視界のなかで、美代は真珠の穏やかな表情(かお)を見つめた。こみ上げてくる感情。溢れる前に、瞳を閉じる。大きな粒が、美代の頬を伝った。真珠の手が添えられたあごが動き、美代の唇が開く。どんなに抑えようとしても、体の震えはとまらない。
受け入れるしか、なかった。
白い歯列が離れ、ゆっくりと桃色の空洞を露にする。真珠の左手が美代のあごから離れ、代わりに人さし指が美代の口腔へと入っていった。
衝撃。闇のなかに火が灯る。怖くはなかった。自分の体の内側から、ゆっくりと温かいものがひろがっていく。静かに真珠の指が、離れていった。
美代の脳裏に、夢のなかでみた場面がよみがえる。廃病院の一室で、影と向き合ったときに自分の体から立ちのぼった炎。
(心配ない。ゆっくと目を開けて)
頭に直接響く真珠の声に促され、美代はゆっくりと瞼を開いた。両手をかざす。縁取りのように蒼白い炎が立ちのぼっている。熱くはない。そして、苦しくもなかった。
「わ、わたし…」
美代の声に、真珠は無言で頷いた。どこか記憶の奥底で、出会ったことのある微かな笑み。美代の内側《なか》で、炎が燃え盛っていく。温かいものが指さきへと伝わる感覚。
(怖くないから。逃げないで、見つめて)
真珠の声に頷き、ゆっくりと鏡に向き直る。
鏡の向こうで、影がフードを外していた。青く腫れ上がった瞼は開くこともできず、頬には斑点のように痣が浮かんでいた。前歯の欠けた口から、しゃがれた声が漏れる。
「逃げないで…せめて…あなただけは…逃げないで」
美代はもう、鏡から目を逸らすことをやめた。
美代はいま、影の正体である、醜く歪んだ自分の顔と向きあっている。影は苦しげに声を絞り出す。
「いままでだって…ちゃんと…言うこときいてきたじゃない…なんだって…あなたの言う通りに…なのに…なのに…どうして…殴るの?」
美代を縁取る蒼白い炎の勢いが増す。影の言葉に、美代は瞼を閉じた。激高した真山の顔が。感情に身を任せた高志の顔が。浮かんでは消えていく。
「目を閉じないで!」
影の声に、美代は目を見開いた。
「ちゃんと…見てよ…わたしを…あなたを」
重く垂れ下がった目尻から、涙が流れ落ちる。影が泣いていた。見つめあう。
「逃げないで…」
影の言葉に美代は頷いた。
「目を逸らさないで…」
もう一度頷く。美代の目から、涙はもう流れない。
「辛かったね」
美代から掛けられた言葉に、影が身を震わせた。何かを言いかけた唇が、閉じることなく嗚咽に変わる。
「誰ももう…あなたを殴ったり…蹴ったりなんか…しないから」
泣き崩れる影に向かって、美代は両手をのばした。うつむいた影が、両手で頭を押さえて首を振り乱す。
「大丈夫…大丈夫だから」
鏡の向こうの自分。醜く歪められた姿で震えている。激しい感情をぶつけてきたこともあったが、真山も高志も美代を殴ったりはしなかった。殺されるかと思った夜もあったけれど。現実はそうじゃない。だからこうして、あなたに声を掛ける《わたし》がいるー美代はただ、そのことを影に伝えたかった。適当な言葉は見当たらない。ただただ、抱きしめてあげたい。
美代は席を立ち、両手を開いて鏡のまえに近づいていく。両手の先に集まった炎が、鏡に向かって伸びていく。
「大丈夫よ…もう大丈夫だから」
伸びた炎が、鏡のなかに吸いこまれていく。炎に導かれ、このまま美代も鏡の向こうへー。
衝撃。
美代の体が引き戻される。目に見えぬ誰かに、背後からもの凄い力で引っ張られたように。真珠の目に鋭い光が走った。
背中に伝わるレザーの感触に、美代が戸惑いの色を浮かべる。
(繰り糸《くりいと》が引かれたのさ)
美代はとっさに真珠に顔を向けた。真珠は少し険しくなった表情で、ゆっくりと首を左右に振った。
(此の世に生きるものはみな、操り人形)
美代は首を振って、頭に直接響く声の主を探した。
(たいていはたぐり寄せられてる糸にも、操り主にも気づかず一生を終えるってぇのに…あんたは、あるとき逆らっちまった)
「どこ?誰なの!?」
美代の声に答えることなく、声は続きを語った。
(繰り主に背いてみても、糸は絡まるだけ。逃げようとすればするほど、がんじがらめになっちまう。けどよ。しょせん操り人形。繰り糸からは逃れられねぇんで)
「誰なのよ!?」
(逃れられない繰り糸を、人はこう呼ぶー《因縁の糸》と)
美代の眼前で、ウイッグモデルが勝手に動き出していた。驚きを露に、美代は顔のないウイッグモデルを見つめる。美代の背後から、真珠がウイッグモデルに近寄った。革のケースから密閉式のちいさなビニールパックを手にすると、なかから何かをつまみだしている。
「え!?」
美代は真珠の手にしているものを見つめ、声をあげた。細い糸のようなものが、炎に包まれ蠢いている。真珠がウイッグモデルの顎のあたりを撫ではじめた。硬いプラスチックのように見えるウイッグモデルの、口元にあたる部分が見る間に柔らかく溶けていく。凹凸のない顔面。
「虚空時、頼んだぞ」
(合点!)
真珠に虚空時と声を掛けられたウイッグモデルの口元に、炎に包まれた美代の毛髪が呑みこまれていった。投石した水面のように、波紋が光沢ある顔面を伝っていく。
(お見せしやしょう。あんたの繰り糸を引いているのは…コイツの…仕業でさぁあ)
美代の毛髪を呑みこんだ虚空時が、激しく震える。見る間に虚空時の毛髪が伸び、カウンターから垂れ下がった。ブラウンに染まった毛先が、カールしている。氷が割れるような音をたて、光沢のある虚空時の顔面が隆起をはじめた。形作られた人の顔は、美代には忘れることのできない存在だった。硬質なプラスチックは、柔らかな肌色へと変化している。閉じられた瞼は、長いまつげに縁取られていた。
その瞼が突然、開いた。素早く瞳孔が光に反応し、美代を捉えて焦点を合わす。視線が重なった。
美代は現れた生首に、悲鳴をあげた。
つづく
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