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2008年5月 6日 (火)

縁切り屋・真珠(11)

 暗闇のなかで、美代は独り下唇をきつく噛み締めていた。
 眼前に広がる巨大なスクリーンには、白人男女の口論が映し出されている。日曜の昼。歌舞伎町にある映画館。最前列で、美代は睡魔と闘っていた。
 シャワーを浴び終えた美代は、すぐに真山の携帯に電話したが、繋がらなかった。数度架け直してみたが、どれもメッセージの残せない留守番電話の自動音声が聞こえてくるばかりだった。若干の吐き気と猛烈な頭痛を抱え、美代はホテルを後にした。このまま小田急線に乗って帰宅したい気持ちと、決して帰りたくない気持ち。人もまばらな高層ビル街を歩きながら、考えはまとまらなかった。大ガードをくぐり、歌舞伎町へ。人混みのなかにも、チェーン系のコーヒーショップの店内も、いまの美代の居場所は見つからなかった。白い吐息。肩から落ちたバッグを掛け直し、ふと見上げた。見覚えのあるハリウッドスターがうつむいている看板が視界にはいる。上映スケジュールと腕時計を見比べた。自分の知っている男優が主演しているというだけで、監督やあらすじも知らない。映画を観にきたわけではなかった。座席を埋めるのは、カップルと老人たち。ふらついた足取りで、美代は通路を歩き進んだ。最前列に腰を落とす。左右を見渡しても、座っているのは美代と右端の老人だけだった。
 悲壮なバイオリンの音色とともに、うつむく女優の横顔がスクリーンいっぱいにひろがる。カメラがゆっくりと移動し、女優の肌をとらえた。震えていた。たっぷりと溜まった雫が瞳からこぼれ落ちる。音楽がさらに大きくなった。
 途切れ途切れの場面が、流れていく。瞼が重い。美代は下唇を噛み締め、睡魔に抗った。闇はいま、美代のすぐ傍にある。そして、闇のなかにはあの影が、存在《いる》のだ。美代の頭のなかで、映画とは別のスクリーンがひろがっていく。ぼんやりとした人影が次第に色彩を帯び、動き始める。声が聞こえてきた。自分の名を呼ぶ声が。
(美代ちゃーん!美代ちゃーん!どこなの?)
 幼き日。実家の押し入れで、美代は震えていた。もともと引っ込み思案だった美代を、快活な美和は外の世界へと連れ出してくれた。何事もお姉ちゃんの云う通りにすればいい。そうすればすべてうまくいくー美和のコトバを、美代は呪文のように繰り返し唱えた。実際、美代は美和の教えに従い、幼き姉妹は平穏な生活を送った。
ーそれが、些細なことで破られた。
 頭のスクリーンに映し出される映像が途切れる。そのたびに、猛烈な頭痛に襲われた。こめかみを押さえ、うつむく。また別の場面が思い浮かぶ。きっかけは思い出せないが、美代は確かに美和の教えを破ったのだ。美代が美和と行動を共にしなくなった日。美和は必死に美代を探した。美代は息を殺して押し入れに隠れた。震えている。理由が思い出せない。闇のなかで、膝を抱えて震えていた。
(帰っているんでしょ?どこなの?)
 優しい美和の声が大きくなる。怯えていた。なぜ、そこまで怯えているのか。美代はスクリーンに映し出される過去の自分に向かって語りかけてみる。答えはない。ただただ、幼き自分は押し入れの闇のなかで震えていた。
 エンドロールを待たずに、美代は席を立った。20年ちかく記憶のなかに埋もれていた場面が、なぜ突然よみがえったのか。美和と対立したきっかけが、美和になぜ怯えたのかが、いまの美代には思い出せない。映画館を出て、歌舞伎町の人並みを歩いても、百貨店を巡ってみても。そこにヒントも答えも落ちているわけはない。観念でもしたように、すっかり陽の傾いた新宿南口に戻ってきた。小田急線の自動改札を抜け、各駅停車の青いベンチシートに身を沈める。虚ろなまなざしで流れる景色を見つめた。
 小田急線を降り、駅前のスーパーに立ち寄る。食欲はまるでなかった。野菜ジュースとキウイをかごに入れる。店を出るとレンタルショップでDVDを借りた。派手なアクション映画の準新作と、バラエティ番組と見逃したテレビドラマをまとめて。コンビニで栄養ドリンクと女性誌を買いこみ、玄関の重い扉を開けた。
 テーブルのうえに雑誌をひろげ、DVDを再生する。部屋を思いっきり明るくしても、栄養ドリンクを飲み干してみても。瞼が重かった。白い皿の上にキウイを載せてナイフで二つに割った。熟したグリーンの果肉を見ても、食欲は湧かない。重い瞼。アクション映画の銃撃戦も、バラエティ番組の笑い声も、美代の意識を繋ぎとめることはできなかった。揺れる視界。目を開いた。テレビが、クロゼットが、キッチンが。ひどく遠くに感じる。目を見開いても、揺れがおさまらない。霧がかかったように霞んで見える。音がしていた。等間隔に刻まれる金属音が。起きている、起きているーそう何度も胸のうちで叫んだ。揺れる視界のなかに、影はいない。それでも、美代の頭に金属音が断続的になり続いていた。携帯だ。誰でもいい、誰かと話していたい。美代はゆっくりと右手をのばした。テーブルのうえに転がる携帯へと、細い指がのびる。つかんだ。美代の表情《かお》に、安堵の色が浮かぶ。瞼は静かに閉じられていった。金属音が鳴り響く。携帯を握りしめ、美代はカーペットのうえに崩れ落ちた。

 闇のなかを、美代は走っていた。自分の刻む足音が廊下に反響する。白い壁、閉め切られた窓の向こうから差しこむ極彩色の明かり。隙間なく敷き詰められたタイルのうえを、走り続けていた。廊下の先に白い壁が広がる。割れた非常口の表示灯。突き当たりを右に曲がった。タイルに足を取られ、姿勢を乱す。両手を振ってバランスを保った。等間隔に刻まれる金属音。大きくなる。いままで走ってきた廊下よりも、幅が狭い。右手に観音開きの大きな扉が見える。消毒液のような匂いが美代の鼻を刺激した。両足を滑らせ、扉の前で立ち止まる。扉を震える手で押した。鍵はかけられていない。激しく上下する肩。闇に塗りつぶされた廊下に目を凝らした。深く息を吐く。窓から差しこむネオンサインのオレンジが、影を浮かび上がらせた。影が両手を振り上げる。巨大な鋏の刃先に光が反射した。迷っている時間などない。美代は息を飲みこみ、扉を強く押した。部屋のなかに飛びこむ。足下に散らかるガラスの破片にネオンの明かりが反射した。ガラス片を踏みつける音が、暗闇の空間に響く。かまわず駆け抜けた。大きな機械にベッドが見える。鼻を刺激する消毒液の匂い。
(病院のなか?)
 周囲を見回しながら、美代は胸のうちで呟いた。勢いよく扉が開く。影が侵入してきた。大きな瞳を必死に動かし、出口を探す。白い壁と窓しか見当たらない。ともかく壁に沿って走った。巨大な鋏が奏でる金属音は、閉鎖した空間でさらに大きく鳴り響く。緑色のベッドが見えた。脇に銀色のトレイがある。窓から差しこむネオンサインの明かりが消えた。部屋が闇に飲まれる。金属音がやんだ。美代の身が硬直する。永遠に続くと思われた沈黙も、影の奏でる金属音と、新しいネオンの明かりで破られた。銀のトレイに視線を送る。赤い明かりに、メスが浮かび上がった。藁にもすがる思いー美代は藁の代わりにメスを握りしめた。冷たい金属の感触が、手のなかでひろがる。美代の体の内側《なか》で、炎が灯った。燃え盛る炎の勢いはとどまることを知らず、美代を内側から包んでいく。美代は眉間に深い皺を寄せ、影をにらみつける。
「どうするつもりよ?」
 自分でも不思議なほど、声は震えてはいなかった。もう美代が逃げないことを悟ったのか、影はゆっくりと近寄ってくる。両手を高く掲げ、鋏を開いた。
「美代ちゃーん!美代ちゃーん!どこなの?」
 壁の向こうから、よく通る少女の声が聞こえた。自分の名を呼ぶ、聴き間違えようのない声が。
「美代ちゃーん!美代ちゃーん!どこなの?」
 メスを強く握りしめ、両足を開いて腰を落とす。下唇を噛み締めた。
「早く戻っていでよ!お父さんも、お母さんも心配しているよ」
 黒いフードに覆われた影の顔。ゆっくりと迫る。
「美和…」
 下唇を噛み締めても、涙がとまらない。なぜ、自分はこんな目に遭わなければならないのか。幸福な美和の笑顔が浮かぶ。
「美和…」
 黒いフードに覆われた影の口元が歪む。力強く両手を振り上げた。フードがはずれた。ネオンの明かりが露になった影の顔を照らし出す。絶叫が木霊《こだま》した。


    つづく






 
 

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